2005年1月28日
経営でも人生でも、そして何かを教える場合でも、難問にあたっと時の対処として大切な事は「単純化」にある。可能な限り本質を抽出し、できる限りシンプルに捉える。そして、その根本部分の解決を目指すのだ。枝葉の部分はその後で良い。
目の前に大切にしたいお客様がいて、引き受けたい案件がある。受けるためには、他の仕事を断らなければならないかもしれない。人が足りないかもしれない。スキルが足りないかもしれない。予算が足りないかもしれない。
確かに、大きな案件で未知の仕事を引き受ける際には、クリアしなければならない問題が次々と思い浮かぶ、実際に走り出せば思いもよらない問題がさらに次々に発生するだろう。
だが、本質は単純なのだ。お得意様からのおいしい仕事だから引き受けたい。だから引き受ける。これで良い。そして全ての問題に関する答えはこれから考えればよいだけの事だ。
全ての問題は単純に考える事だ。人がいなければ雇えばいい。借りてきてもいい。金が足りなければあるところから借りればいい。スキルや知識が足りなければここで学べばいい。大丈夫。きっと簡単な事だ。
大事な事は、チャンスがあればそれを逃さない事だ。手を出さなければ失敗するよりも後悔するだろう。ただそれだけの事なのだ。
2005年1月27日
寝たのは2時を過ぎていた。
ピピっとなる携帯の目覚ましを止めると、ひんやりとした空気を布団越しに感じる。
「今日は、掛川。」
携帯で時間を確認すると5時半。半分眠った状態のまま風呂に入り、目がさめるのを待つ。
大丈夫。行ける。
体の細胞が一つずつ目覚めていくのを確認しながら、今日のスケジュールをトレースする。
まず、すぐにあの案件のメールを書く。次に今日の案件の準備をする。
自分はここに行く、彼はあそこに行く。明日・明後日と頭の中のカレンダーをめくり、必要事項に漏れが無いかを確認する。
大丈夫。行ける。
確信がもてたときには、目がさめている。後は走るのみだ。待ち合わせの場所でスタッフをピックアップし、高速で静岡に。かかってくる電話に応対しながら、同時に対応策を練る。
現地に着くとエンドユーザに挨拶をして、早速業務に取り掛かる。
すでに研修にて手順はしっかり確認している。どの業者よりも丁寧に、迅速に。
手早くコンソールを操作して、撤去品を固める。チェックシートにそって一つずつ詳細に確認をとる。進捗を細かく本部に伝える。一つずつ、お客様なりエンドユーザ様なりが期待する一歩上のサービスを常に心がける。撤去したこれから捨てるだけの廃材といえども、まとめる際に汚れを落とす。ケーブルをまとめる。指示に無くとも増設した機器や機能の説明をエンドユーザに行う。
我々自身がクライアントの指示無く、かってな付加作業を行う事は出来ない。出来る事は、こうした「心配り」に属する部分だけである。しかし、これが次に繋がるのだ。
昼過ぎには業務を終え、帰路に着く。なり続ける携帯の対応に追われているうちに日は沈み、夜まで人の手配を行い、一息入れると日付が変わろうとしている。
忙しい。でもそれがいい。ごろりと横になり、天井を見上げる。
「さて、プレジデントルームには何を書こうか・・」
2005年1月26日
アメとムチ等の政策で有名な云わずと知れた鉄血宰相ビスマルク。
私は、彼のストラテジックな戦略も彼の熱い気持ちも大好きである。鉄血宰相とはよく云ったものだ。
彼の本領は外交にある。統一後間もないドイツが戦争に巻き込まれる事を避けるため、徹底的に宿敵フランスを孤立させる外交を取る。
まず、ロシアとオーストリアの結んでいた協約にドイツが加わる事で三帝同盟を結ぶ。ロシアが南下してオーストリアと険悪になれば、あるときはオーストリア・イギリスにつき、又あるときはロシアにつき、最後には同盟を維持してしまう。それでもロシアが南下政策を推し進めれば、ドイツ・オーストリア・イタリアで三国同盟を結んでロシアの野望を防ぎ、一方でロシアとも再保障条約を結ぶという離れ業をやってのける。
1873年の三帝同盟から1890年退任までの長き間、フランスは孤立し続けドイツは国力を高め続ける。翌91年にロ仏同盟が結ばれてビスマルクのもっとも恐れていた状態になるのだから、如何に彼の外交手腕が優れていたかがわかるだろう。
ビスマルクの政策は、モノポリーに似ている。ある国と手を組む事によって他の国から一歩リードし、また他の国とも手を組む事によって一歩リードする。そうして積み上げた優位点を総合し、ついには強力なライバルをも凌ぐのだ。共に伸びるという取引感覚こそが私の経営方針の基本でもある。そして多くのお客様と取引する事によって力を伸ばしていけばいい。
最後に、彼の云った言葉で私の好きなものを紹介する。
「青年に進めたい事はただ三語に尽きる。すなわち働け。もっと働け。あくまで働け。」
政治家 ビスマルク
2005年1月25日
2005年1月24日
師について考える機会があったので、プレジデントルームにも書いてみよう。
私が自分から得心して師事する人間というのは、学生時代にはついにあらわれなかった。
師は自分と同じ志を持ち、何よりもその意気をもって範を示す人物であって欲しい。私が師事する漢は、コスモ証券時代に現れた。
証券時代、大阪にいた頃、日々の業務が終わって社員が帰っていく中、私は一人でデータを収集し、分析し、新しい企画を練り、トラブルの対処法を探っていた。毎晩遅くまで、自分の周りにのみ明かりが灯り、それでも仕事が楽しくて仕方が無かった。
東京移転が決まり、移転後その業後のあり方が変わる事になる。うちの部の隣の部屋にも明かりが灯っており、そこでも自分と同じ様に、会社を一歩でも前進させるため一人黙々と業務を行う漢がいた。彼こそが我が師、松崎師匠である。
http://www.rikunabi2005.com/RN/05/KDBG/06/0028906001/DETAILA/I001/2p.html
彼は云う「セクショナリズムなど無い。」管理本部出身の師は、管理としてのバックスタッフ業務も一流でありながら、別枠で会社全体のフロントシステムの構築者として営業の声をそのままシステムに出来るエンジニアでもあった。また、その副産物としてデータベース構築を一人で行い、CRM戦略の会社における第一人者でもある。オンライントレードの部署でも彼の協力を得て掘り起こした顧客の数はすばらしい量に上る。
何よりもあの会社の中で私を理解してくれる数少ない上層部でもあった。あるとき、営業の新人を統括する立場の人と一緒に飲みに行ったときに、意見の食い違いからその人を怒らせる結果となった。その人も尊敬していた人であったが、絶対に退けない内容でもあった。そして、彼にとっても絶対に退けない内容であることも理解できた。最後に「社会に出て数年の若造に何がわかる。俺の言うことはわかったのか!」と、頭ごなしに怒鳴り、その場はお開きになった。
冬だった。飲んだ後、気まずくなって外に出て帰ろうとした私に、師がトントンと方を叩く。
「おまえの言いたいことはわかる。だがあの人も自分の仕事に誇りを持っているし、だからこそ退けない事があるんだ。今会社に、自分に何もメリットの無い会社の事を思って仲間と喧嘩出来るやつが何人いる?わかるよな?彼は、すばらしい人間だと俺は思う。そして、会社を思って泣けるやつも俺は誇りに思う。」
気が付くと私の目からは大粒の涙が溢れていた。何に心を動かされての涙かはわからないが、自分の気持ちを汲んでもらえる師の優しさがただうれしかった。
師とのエピソードは、泥臭いものも数多い。あるとき、「A社がはじめたあのシステムは、うちに導入できないのか?」と師が私に問う。部長に上げれば、システム企画部に上げ、出来ないと返事をもらい、それで終わる。
だが、私達は違った。「前半の3分の1は現行のシステムを使えばいけます。そこから先は手動になりますが、うちでここまでは作業できます。監査が入るかもしれませんが、他社で前例があるのでいけると思います。これ以降は管理側の作業になりますが、ここはおねがいできますか?」「ここまでといわずに、あそこの段階からうちがやる。その代わりここまでやれよ?」
師匠からの要求は厳しかったが、毎日遅くまで残ってうちの業務の範囲内の事をやっている師匠の姿と見ると、「できない」とは云えなかった。
彼は、他社が普通に出来る事が自分達に出来ないと思う事が我慢できなかったのだろう。私もそうであった。基準にしていたラインが会社内ではなく、世間の常識にあった。そのため、多くの社内の常識を打ち破っていく必要があったのだ。
師は常に云っていた。「絶対に負けない。」
そういい続けて戦い続ける姿は今でも鮮明に覚えている。辞めるときに一番言い出し辛かった相手も師匠である。厳しさも優しさも彼の背中から学んできた。起業する前にサラリーマンをやっていて良かった事は偉大な背中を見る事が出来た点にあったと思う。
そして私も誰かに誇れる背中を見せられるようになりたい。