2005年5月2日
本来のスタンスに戻ることにする。
つまり、このプレジデントルームであれば
「書ける時に書く。何ヶ月休もうとも、また時間が取れたら、気分が乗ったら書けばそれでいい。」
ということだ。
もともと私自身が短期集中のムラッけの塊であるのだから、そもそも「毎日○○をしよう!」という心構え自体が自分らしくなかった。
趣味にしろ、学習にしろ、今まで長く続いているものは、やりたいとき、必要なときに、好きなだけやる。というものに尽きる。「毎日少しずつやらねば」と勢い込んだものは、溜まった時に振り返って嫌になり、二度と行わなくなる。そのくらいならば、やれるときにやれるだけ、と思っていれば再開するのも気が楽である。
「このネタは明日にとっておこう」というのも、実に自分らしくない。やりたい物というのは旬の時期があり、それを逃すと魅力を失うものだ。余力を残して次の日にゆだねる、というのは自分の輝きを失うものだろう。
また、大学時代の友はこうも語っていた。
「明日やろうとする愚か者め、賢者は昨日している。」
今日できる事を力いっぱいやる。それで良いのだ。
2005年4月7日
春木中学は、私の母校「春木台小学校」とお隣の「音貝小学校」がくっつく。
中学に上がり、音貝からきたH氏と知り合う。私の中学時代はなんと云っても彼の影響が大きいだろう。
彼が私に持ち込んだ文化はズバリ「クイズ」と「パソコン」である。
そもそも、私が立命館を志したのがウルトラクイズで大活躍した長戸や能勢がRUQS(立命館大学クイズソサエティ)出身であったからである。
この頃は、クイズブームで各局クイズ番組が大爆発していた。雑学を集める習性はこの頃身についていったのだろう。
パソコンについては、ゲーム歴共に振り返ろう。
初めて買ったゲーム機は、セガの何かだったと思う。小学・・2年生あたりの時である。
程なくして任天堂からファミコンが登場することになるのだが、セガが壊れて動かなくなった後、なぜかMSXを買った。
つまり、これがパソコン歴の始まりである。恐らく確か、ゲーム機として買ったのだ。
今となってはあまり思い出せないのだが、カートリッジのカセットのほかに、普通のテープレコーダでロードするタイプのゲームもやっていたと思う。
「ピーピーガーッ!」と音がして、ロードに30分くらいかかるやつ。
自分でもベーマガを見て入力をしていたりしたが、プログラム知識は表面だけであった。
中学に入り、H氏がドラクエの戦闘シーンもどきを作っているのを見て、触発されウィザードリィもどきのゲームや三国志もどきのゲームを創る。
これが本格的にプログラムを組んだ最初になった。
生徒会もやった。それなりに忙しかったのだが、大きなイベントとしては二つ覚えている。
一つは雲仙普賢岳の噴火に対して募金を集めて送ったこと。何気に提案して始まったのだが、取材がきたり表彰されたりでえらい騒ぎに発展していた。
もう一つは、頭髪規制の撤廃。丸坊主だったのをやめた。これは時代の流れに乗ったのだが、実現まではそれはもう大変だった。
思えば、この中学までの期間で、自分というものの素地は殆ど出来上がっている。
一気に書いたが、中学時代と大学時代は書こうと思えばいくらでも書ける。重要なターニングポイントになっている。
2005年4月6日
小学生になる頃の記憶からは、かなり鮮明なものになっている。
恐らく、時間や日付の概念を正確に理解できたのがこの頃だからだろう。保育園の頃はイベントの順序が良くわからない。
また、母親が世界の中心であった保育園時代から、先生や友人のウエイトが増す小学校時代に入り、他人からの影響が性格に反映されていくことになる。
特に、3・5・6年生の頃教わったT先生の影響は絶大である。
青山学院の心理出身の教諭であり、国語のエキスパート。ユニークな授業方法などはご近所でも話題になって、特に彼の教え子の記憶能力はすさまじいものであった。
じゅげむに始まり、都道府県、四文字熟語、ことわざ、その他もろもろ、私自身も異常な量を暗記している。
国語の教科書でも、ぶす(附子)等は丸暗記したし、映画のグーニーズを丸暗記したりと暗記量は際限が無かった。
また、年に一度の「学習発表会」という演劇の発表会でもかなり力が入っていて、その頃から「ステージを創る」魅力に引っ張られていた。
演目は、浦島太郎と卑弥呼。両方とも主役をやったのでストーリーもせりふも殆どまだ入っている。
卑弥呼は熱演でした。「おぉー!見えるのじゃ、見えるのじゃ。2千年後のわが国が。何たることじゃ。美しき自然は壊され、人々は贅沢な暮らし。なんと、子供が子供をいじめておるではないか。誰のせいじゃ、誰のせいじゃーっ!(ばたり。)」
課外では、サッカーやったり野球をやったり、カブスカウトをやったり、アクティブな活動をしていた。
そうそう。この頃は絶対音感があって、和音を聞き分けられたり、楽譜を見るだけで歌えたりと今考えればうらやましい能力があった。
いつごろ無くなってしまったかは不明。
2005年4月5日
思い出してみる。
大学時代就職するときに「自己分析」なるものを試みた。
その際、記憶に残る昔から何をやってきたのか。そこから何を得てきたのか。
振り返ることによって、改めて「自分」というものを知覚する。
新しい一歩を踏み出そうとするとき、困難な壁にぶつかったとき、きっとそれは力になる。
記憶に残せる年齢になる前の記憶とは、余程強烈でしかも成長の過程で何度も振り返って思い出しているものとなる。
私の最古の記憶は初めて歩いたときのものだ。
小さい時に遊んだ積み木が今も残っていて、それを見るたびに思い出しているので記憶に残っているのだろう。
ちょうどその積み木は取っ手がついていて、所謂「つかまり歩き」に適している。それから手を離してよたよたと数歩。
それからはだいぶ時間が空いて、保育園に上がるまでは2・3シーンしか残っていない。どれも怪我がらみである。
滑り台から落ちて鼻をずりむいたり、アタマをぶつけて何針か縫ったり。今にして考えると、私も不注意だが母も不注意だと思う。
保育園に上がってからは、かなり記憶が定着している。時間割もわかるし、その頃歌った歌や、発表会の演技も覚えている。
私の通っていた保育園は家から遠く、必ず一箇所は大きな道路を越えなければならない。
あの頃私は、一人で家に歩いて帰るのが大きな野望の一つで、それを実行したことがある。
帰り道の事などは何も覚えていないので、きっとすんなりと帰れたのだろうが、それではこのイベントは記憶に残らないだろう。
記憶に残っているのは、終わった後のワンシーン。母親の鬼のような怒顔、これが保育園時代の野望達成の記憶として染み付いている。
2005年4月4日
日向家の味付けは薄味である。
幼い頃からある事情で、薄い味付けにならざるを得なかったおかけで、私の舌は明敏になったようだ。
また、子供の頃からすっぱいものと、苦いものも食べる習慣があった。
この経験がないと味覚は育たないらしく、甘いもの・辛いものだけでは不十分なのだ。
加えて、所謂「げてもの」も問題ない。おかげで留学中にも色々な国の料理を楽しむことが出来た。
ふと自分を振り返ると「まずいもの」の定義が良くわかっていない。
回りを見渡すと、人がまずいというものには幾通りかあって、ひとつは「食べなれていないもの」だ。
舌が発達した後、新しい味を自分のものとするのは人には難しい事らしい。私には未知の味をまずいと感じることが無いのでこれには当てはまらない。
次に、「過去にいやな経験をした食べ物」。よく小さいときに腐ったものを食べたりするとそれ以来その食べ物が苦手になる。ということがあるが、私にはこうした過去は無い。
次に、古くなったもの。なるほど、腐敗して可食物では無くなったものは、健康上の理由であまり口にしたくないが、加工の手段として発酵させたものであれば大丈夫である。
それに「新鮮だからおいしい」は、ものによる。同様に「天然だからおいしい」もものによる。
あとは、味ではないが食感がよくないものだろうか。ぶにぶにしていたり、かちこちだったり、ゴムみたいだったりするときにまずいと表現されることはよくあるが、それはそういうものとしてしかたが無いと思う。
ただ、飲み込めないものは苦手かもしれない。噛み切れない上にバカでかいもの。そう、たとえば巨大なこてっちゃんなんかは得意とはいえない。
同様に、「うまいもの」の定義も実は良くわかっていないが、これは悩む必要が無い。
食べながら幸せであれば、それはうまいものである。
らーめんやの親父の執念や、身内の愛情がこもっていれば、単純な食材や味付けでも至高の料理となろう。
ただ記憶に残るほどシンプルに旨い味付けというものも、今までに経験したことがある。
そして、それは私の舌の経験値として次の「旨いもの」を探す力となってくれることだろう。