企業家の風景」というブログを読んだ。シンプルだが、訴えている内容は大切だと思う。
1) 選挙に行こう。
2) 改革を実現しよう。
3) もっと発言しよう。
同意できる。今回は簡単に自分の政治に対する意見を述べたいと思う。
今回の郵政改革、解散総選挙は久しぶりに胸が躍った。
私はそもそも二院制も政党政治も反対である。二院制などというものはスピードを落とし、コストがかかるだけ全く意味が無い。参院で廃案になり、同案を再び通すためには3分の2以上の賛成を今度は得なければならないので、実質参院廃案の案件をもう一度通すことは不可能だ。それでは衆院の議決の意味が無い。今回の解散総選挙のように首相の解散権があるのは衆院だけなので、民意を問うこともできない。日本の二院制は形骸化した最悪の制度である。
また、郵政法案についても民主党の中にはずいぶん本来賛成な人も多かったのではないか?与党に反対するだけのための反対、ではなく、法案自体に賛否を応えるのが国民の代表たる国会議員の勤めだと思う。政党が議員の意思よりも優先されるという形はそもそもおかしい。同じ党内で、「執行部のやり方が気に入らないから」「法案」を反対した自民党議員に至っては、すでに存在価値そのものが無い。早く辞めることが一番国民のためである。
とはいえ、カネとヒョウが集まるところに政治家は群がらざるを得ない。宮沢政権まで、というよりも自民党が野党に転落する細川政権が始まるまで、政治は自民党のしかも派閥のママゴトで決められていた。そこには議員個人の意思は何も反映されず、ドロドロの金権政治がまかり通っていて、派閥からカネの配分権を巻き上げるために小選挙区制が必要だった。とはいえ、小選挙区制導入という自らのヒョウを減らす改革というのは自民党政権ではできないため、細川政権下で選挙改革が実行されたのだ。今の「派閥」が無力なのは、この一瞬だけ瞬いた自民以外政権誕生のおかげである。
以降、カネは党執行部が握ることになる。
私は郵政民営化に賛成である。公務員削減ももちろん必要であるが、それ以上に財政投融資という灰色の公的資金が国民の見えない場所で非効率に使われているのを止めねばならない。
今回の自民党のように、票田と既得権に絡む政治家を切り捨てて総選挙を戦うのは正しい姿だと思う。
一方で「小泉自民党再選」は反対である。自民党が選挙でもしかったとしても郵政法案は参院で3分の2の賛成票を現実的に取ることはできまい。一方で、カネを握っている党執行部にはもはや党内に反対できる議員は一人も残っていないだろう。郵政法案には賛成だが、実現しないなら他をやるべきだし、独裁者を作ることにも反対だ。だから自民党反対なのである。
一方民主党はどうか。確かに頼りないという点は理解できる。小泉氏に比べ岡田氏にリーダーシップがあるかという点でも疑問だろう。但し、頼りなさという点では細川内閣の7党連立の方が頼りなかった。7党もの方針が集まれば、何もできないだろう。しかし、選挙制度改革という一点だけでもあの頃の酷い政治風土を崩し、現在の小泉改革の土台を作ったのである。今回の民主党はそれに比べれば明らかに政策担当政党としてまとまった勢力を持っている。なによりも自民党と官僚で培ってきた政官癒着を取り除くことができる。いったん既得権を排除した上であれば、多くの行革を実現することができるだろう。
小泉首相は声高に叫ぶ。「郵政民営化に賛成か反対か。」
私は賛成であるが、自民党は選ばない。

テレビの記者会見で経営者が謝罪しているシーンを見かける事があると思うが、常識的に考えると彼らが反省しているようにはとても見えない。市井の人は「経営者の感情ってどうなっているのだろう。」と感じずにはいられないはずだ。
答えとしては二通りあって、感情が麻痺しているか、あるいは感情を切り離す事ができるか、である。経営者ともなれば悩みの種などいくらでもある。「資金繰りをどうしよう。クライアントが怒っている。」など、一つ一つ気にしていたら、それこそ夜も眠れない。生まれつき図太く鈍感な人や何事もポジティブに考えられる楽天家であれば別であるが、そうでなければすぐに感情が飽和してしまう。
私は「切り離し型」である。おそらく標準の人よりも膨大で繊細であろう感情をジャッジシーンや別状況では可能な限り切り離す。言い換えれば経営者としての自分は、感情を切り離して演技している自分である。とはいえ、私はきっとテレビで見かける経営者達ほど鉄仮面にはなれない。演者として力量が不足していると云えばそれまでであるが、うれしさも悲しさも完全に「理解」するようになってしまっては人生が全く楽しくなかろう。
どちらにしても、多面的な性格や感情を切り分けていかなければ、経営者は務まらない。

2005年8月18日

《Alpha Geek》

最先端と思われる技術群を探り、その動向を模索して方向性を指し示す。我々の様に経営者であり、かつ技術者である人間には、そうした資質が常に求められている。こうした特性の人種は「アルファギーク」と呼ばれる。
私は普段の行動をなるべくオープンにしているが、それでも親しい友人や同僚の中にも、「私が何をしているのかわからない時間帯」というものが、存在しているだろう。そうした時間帯の多くは、なんらかのメディアから知識や概念を入れたり、思考したりしているのである。
そして、興味深い分野では長考になる。
今日のテーマは「wiki」だった。ほんの先日まで私自身は全く知らない技術であったが、友人の何気ないコメントでその存在を知って以来、可能性を模索している。簡単に説明すると、ウィキとは複数の人で管理するブログのようなものである。ブログにおけるこの記事部分も皆で記載することが可能であることから、BBSにより近いとも考えられる。代表サイトとしては「ウィキペディア(Wikipedia)」がある。
こうした百科事典型のサイトはもとより、ニュース型、グループウェア型と用途は非常に広いだろう。まだ仕様をしっかり飲み込めていないが、権限とストレージ部分が確立されていてMySQLあたりのデータベースをユーザが簡単に組み込めるようになれば、とんでもないキラーアプリに化けるのではないだろうか。ブログを初めて見た時、「これで個人がホームページを持つための敷居が無くなった。」と感じたが、ウィキを見た時には、「これで個人がホームページを持つ意味が無くなった。」と感じた。
興奮して思考を拡張していくうちに、時間は瞬く間に過ぎていくのである。

先月「タイムマネジメント」でも示したように管理すべきは「時間」であり、我々経営者はパラレルしていく起こりうる未来を意識的に判断して掴み取ったり、幸運に任せて流されたりしていくことになる。
時に私は、「あったかもしれない現実」、いわゆるパラレルワールドについて考える事がある(けして現在を後悔しているわけではないが・・)のだが、それでも今でも、観察できるまでわからない不確定な状態の間を走り回っている。
「シュレディンガーの猫」というパラドクスがある。テーマとしてはこんな感じだ。

箱の中に猫を入れて観測者から見えなくする。1時間の間に50%の確立で致死性のガスがでる。1時間の猫の状態をどう説明するか(生きているか死んでいるか)?

一つの解釈としては、観察するまでは全ては不確定であり、それまでは「生きている猫」と「死んだ猫」が量子的に重なり合った状態で存在し、生死を確認した時点で状態が収束する。というものである。
「確認した時点」が蓋を開けた時点なのか、ガスが出た瞬間なのか、といった定義の問題が新たにでてくるが、そもそも確認者が必要であれば、厳密には「意識」が何時発生するかを詰めねば正確性を担保できない。とりあえずは、確認者が自分であれば「状態が収束」した時点で確立は現実として一つとなる。
もう一つの解釈としては、「状態の収束が起こらない」とするものである。つまり確認者が「生きている猫」と「死んだ猫」を確認した時点から確認者も「生きている猫を確認した人」「死んだ猫を確認した人」に分岐して量子的重なり合いの状態を続ける、というものである。つまり現実は分岐された先で複数に分かれていくけれども、分岐先それぞれでは他の分岐先は見えない。
以前酒席でいつものように、「あったかもしれない自分」を語りながら「もしかしたら今ドラえもんを作っていたかもしれない。」という話をした時に、同席の友人から「それなら、もしかしたら作っている日向が、今現実にいるのかもしれない。」という返答が帰ってきて、その後このシュレディンガーの猫の話に及んだ。
なるほど、分岐先の自分から見れば他の分岐先は見えないのであれば、そういった分岐先も現実の一つとして折り重なっているかもしれない。それであればそもそも「ドラえもんがいる世界」もどこかで分岐されていて、折り重なった現実の一つともいえるだろう。
当面我々は分岐された先の一つの世界しか見れないのだが、現実が複数に折り重なるというのはエキサイティングな考え方だ。収束されるたった一つの状態が、過去から未来における唯一の現実だと考えていた自分にとって、夢の器が一つ広がった感じがした。

2005年8月12日

《緊急》

当社では「お客様が困っている時にいかに対応できるか?」に重点をおいている。
ある意味それは、「システム化された合理的な会社」とは対立する定義かもしれない。
契約を守って、自社の理を通すことは実は難しくない。しかし信頼できる人、会社というのは、その向こうにあるものだ。
私自身、緊急対応で夜中突然の作業に呼ばれることがある。現地に行ってみると解決済みや作業日変更で、無駄足に終る場合も多い。
しかし、こうして動く事の意義は大きい。作業自体でPR出来なくとも、心意気は必ず繋がるものだ。
当社はそういう会社でありたい。