2006年2月19日
仕事をする上で、上司や取引先に対してどんな事にもハイハイと従い覚えをめでたくする事は簡単である。
自分ひとりの事であれば、残業や休日出勤をして凌ぐ事も出来るだろうし、自分の残業代をつけなければ目に見えるコストも上がっていく事はない。
しかし、多くの仕事が協業で成り立っている以上、いくら取り入りたい上司の希望や大切にしたいお客様のご要望でも全てを受け入れていたのでは、協力してくれる部下や一緒に仕事をしている下請会社に対して多大な迷惑を与えてしまう事になる。
特に大きくの人や組織が関わっているプロジェクトをリスケする場合などには、関係者全てのスケジュールを再調整する必要があり、金額だけでは解決できない場合もある。キャンセルであればそれこそ金額だけの問題で片付けられるが、既に他のスケジュールが入っているところにねじ込んでいくような大幅なタイムオーバーや日程変更は、金額よりも信用を取りたい人や組織としては何とも調整のしようが無いものなのだ。
だからこそ、仕事上では「約束した時間を守る」という事がこれほど重要視されるのだろう。
「開始時間を守らせたい、ドタキャンは赦さない」、というのであれば、自らも「終了時間を守る、ドタキャンはしない」、ということを守らなければいけない。これは本来、お金を払う側こそが気をつけるべき事項である。
2006年2月11日
明日は姉の結婚式なので、今週末土日は社業を全て任せて、すっぱり仕事を忘れて姉の為に準備するつもりでいた。
昨日も夕方からは家族から仰せつかっていた仕事もあり、とても社業を進める事なんてできないと思っていた。しかしながらそんな日に限ってトラブルというものはやってくるものである。
土曜日の手配が急遽変わってみたり、月曜日の既に仕事枠一杯請けているところにもう一件ねじ込まれたり、既に確定したと思っていた案件のスタートを渋られたりで、携帯電話から離れられない。
ちょうど10日で支払日と云う事もあり、振込みの確認を終えると23時。
バイトの面談結果を金曜日中に送ると約束しながらも、再スケジュールをする余裕はかけらも残されていなかった。とりあえず、スケジューリングについては専務に渡し、今日明日の現場に目処が付いたあたりでやってもらう事にする。
朝起きるとクシャミが連続で3発。まずい。どこかでウイルスを仕入れてきたか?
しかし、今日こそは、仕事から距離を置いて明日の準備をしなければならない。なんといっても披露宴で行うマジックについて、まだかけらも準備できていない。
起きてみて今日明日の手筈を家族と確認すると、今日の夜は親戚を家に泊めるのでテーブルから会社のものを片付けるように指示される。確かに見れば、昨日の支払の為に必死で計算した領収書、送られてきて保留にしていた請求書、面接で受け取った履歴書や職務経歴書、1月から加入し始めた雇用関係書類が、所狭しと無残に散乱している。これでは恥ずかしくて人を家には泊められない。
一時的に端っこに寄せておこうかとも思ったが、なくしてしまうと一大事な重要書類ばかりだ。一大決心をして、事務処理に取り掛かる。
ふと気がつくと、いつもにもまして仕事をしている自分がいる。姉よ、すまぬ・・。
2006年1月27日
学生の頃は、「なんでこんな事を勉強するのだろう?」という事が多々あった。
大学を卒業するまで、「学問は実生活に活かせるもので無ければ意味が無い。」という実学重視で学んできた。
おかげで経済学や会計学について理論的な部分を問われても表面をなめるようにしか答えられないが、実際に投資や経営、税務を行う事は滞りなくできる。
一方で、抜け落ちた基礎の部分で判断が揺らぐ事も多いし、納得できずに釈然としないままルールを丸呑みしている事も多い。実学重視とは「そういうものだ」と思って飲み込む事である以上、仕方が無いのだが、「ナゼだ!」という疑問はずっと引きずり、何かにつけて思い出す疑問となる。
社会人になると、当時丸呑みして覚えていた疑問にぶつかり、学術的な論拠を得てスッキリするという学び方にも多少軸足を移す事ができる。こうした学習は何かをするために必要な事ではないが、自分の中の世界を広げてくれるし、合理的な判断をするためにも役立つ。
本当に些細な事が多いのだ。
「赤字の計算をする時に、-1.5を四捨五入すると-2にするのは違和感がある。」とか、
「5分の1は、10進数なら0.2と割り切れるのに、2進数だと、0.00110011…と循環小数になるのは何となく納得できない。」とか。
経営やコンピュータに関わらない実業とそれた部分であっても、そもそも、「分数の割り算は何で逆数をかけるの?」というあたりから、良く分からずにルールを呑んでいる部分はたくさんある。
覚えた当時の頭では理解できなかっただろうが、今であれば理解できるしその理解は他の疑問も連鎖的に解かすケースが少なくない。
しかし、何といっても新しい概念を理解する時に感じる世界の広がりみたいなものは、何歳になっても楽しいと感じるものだ。昇進して、新しいポジション・新しい視点で物事を考える時に感じる別世界の感覚と、虚数を理解して直線から面積に広がる数の世界を知る興奮と、意外に似ているのかもしれない。
2006年1月20日
経営者や政治家が市井の感受性を忘れない事は重要な事だ。
責任者として、あるいはその道のプロフェッショナルとして世論とは一線を画した冷静で的確な分析や処置方法というものがあったとしても、客観性というものは時として世の多数を占める素人の感受性が形成する事実を忘れてはならない。
今回のライブドア事件にしても耐震構造事件にしても、専門的に「適法」とされてきた手法もマスコミによって黒側と判断されたら最後、世論の勢いもあいまってたちまち違法行為とされてしまう。
法律やシステムに抜け道があるのは仕方が無い。法律の専門家であってもその業界の専門家ではないし、システムの設計屋であっても自分がシステムを使った実作業を行う事はないからだ。
当然現場では、「違法行為でない必要行為」「システム想定外の特例決済」というものが頻発するようになる。この部分はグレーな行いという事になるが、実行側では「違法」でなければ適法と判断するし、「システム想定外」であろうとも必要であれば実行に移す。一方判断を行う司法や行政、今回では立法府もであるがそういった国の機関やマスコミ、世間一般では、グレー部分の白黒決定権は法的論拠によらず感じたまま行う。
我々経営者は「適法である限りの経済合理性」を求めてはいけない。
社員であればどう感じるか?
出資者であればどう感じるか?
お客様はどう感じるか?
行政はどう感じるか?
第三者から見ればどう感じるか?
彼らの感じている「普通」は経営の感じかたと差があるのはもちろん、それぞれのグループ間でも大きく異なる。「普通」の軸足は誰もが自分で考えているほど常識ではない。
彼らの感性によるジャッジは「合理的かどうか」ではもちろんないし、「合法か違法か」でも無い。だから経営者は「コンプライアンス」を軸に経営判断をしてはいけないのだ。もっともっと手前の部分で、判断する人の感性を基準にセーフゾーンを作らねばならない。
経営者には、様々な立場にいる人やグループの感性を受信する能力が不可欠になる。
「人とは違う事をやれ!」に代表される、革新的な事はセーフゾーンを踏み越える必要がある。グレーゾーンを白く塗り替えていくためには、関係者の「共感」を得ていく必要がある。
「リーガル・フェア・モラル」で、モラルの部分は一番難しい。感性は線を引く事ができないからだ。時代や立場で刻々と変化する不定形のモノを感じ取る能力、あるいは引き込んでいく能力が必要になるのだ。
2006年1月19日
今回のライブドア事件、一つ一つを見ていけばグレーゾーンだ。どちらかといえば白に近い。
本来裁かれるべきは、不完全な取引システムを構築・運用して欠陥を放置してきた証券業界そのものだと思う。マナーの悪いプレーヤーを排除したい、その気持ちはマーケットに携わるものであれば共通する想いだ。そのプレーヤーの行いで損をする側の人間であればなおさらだ。しかし、このライブドア退場劇は、アンフェアだと思う。少なくともマーケットを停止させてしまった東証や業界関係者の罪は”マナーの悪い個別企業”よりもずっと重いと私は思う。
まず前提知識としてライブドアの大量分割を利用した錬金術について産経新聞の記事の説明がわかりやすいので見てもらいたい。
私自身の意見としては、株式の売買金額の小口化は一層の株式取引普及に欠かせない要件だと思っている。そのための分割も賛成だ。問題があるとしたら現行の分割制度そのものであって、不備を知って改善していない業界の体質そのものだと思う。そして、不備を突いて利益を上げる手法は違法でなくともマナーには外れる。不埒者に対しての対処が公平性を欠くのでは、信頼される裁定者には絶対になれない。
証券業側の立場としてわかりやすいのが、こちらの記事。
思うに、ライブドア本体が100分割したのと、今回ライブドアマーケティングを100分割したのと、手法として変わりは無い。違法性もどうレベルであろう。しかし今ではライブドアは自らも証券業を営むグループ企業ではないか。投資家は今では自分の関連企業のお客様でもある。お客様を欺き続けて自社の利益を追求する、そんな姿勢がマーケットからの退場を余儀なくされた背景にはあるのだと思う。