2005年1月20日
仕事を請けて現場に赴くとき、自分の責任で作業可能なことと不可能な事がある。
特にトラブル時の対応においては、極力自分では判断してはならない。自分の守備範囲をお客様に伝え、正規のルートで連絡・対応をお願いする事になる。
それでもお客様から何とかして欲しいとお願いされた場合は、現在の仕事の指揮権限のある担当者の指示を仰ぐ。ここで、責任者が的確に対応すればよいが、往々にして「現在の仕事を的確にこなすように」等の、その責任者の持つ責任の守備範囲での指示を受ける場合が多い。
さて、ここで自分には作業できない旨を伝えて、お客様が納得しない場合はどうなるのだろうか?現地の担当者としては、二通りの選択肢がある。一つ目は、困っているお客様がいて、自分が対応可能である場合は解決する。二つ目は、どれほど大きなクレームになっても、自分の守備範囲外の仕事は断固として行わない。
正解は、二つ目である。さて、実際に大きなクレームになった。しかし当社のスタッフが取るべき対応は二つ目であり、それで当社としての責任は100%果たしている。守るべきものは当社に任された範囲までの責任と義務である。
しかしながら、本音を云う事ができるのならばエンドユーザーに優しい企業でありたいし、優しい企業とつきあいたい。
2005年1月19日
タイムマネジメントは、仕事における全ての根幹である。
本当に忙しい時ほど、また多くの人や会社が関わっている時ほど、時間の管理が徹底されていないと多くの人々に迷惑をかける事になる。
「待ち合わせ」というのは、その中でも最も重要な事である。大人数で行う会議などは、一人一人の時間を守る意識が高くなければ、時間通り行う事はできない。遅れれば、終了時間も伸び、メンバーの貴重な時間を奪う事にもなる。誰かのタイムマネジメントを崩す事になる、という事を考えれば、まず何よりも時間厳守を徹底しなければならない。
しかし、そんな中でもどうしても待ち合わせに間に合わない状況になる場合もある。ここで次に大事な事は、事前に連絡を入れる事である。目の前の状況が切羽詰っていて、一刻も早く処理したい、という考えは痛いほどわかる。しかし、それでもまず先約の断り連絡を先に入れる事だ。その際、再時間設定は、余裕を持って設定する。30分後に終わりそうなので30分後に、というのは、大きなミスの元になる。その時間にも間に合わなかった場合に目も当てられないからだ。後ろの時間に設定しておき、会える確信がついた段階で前倒しの連絡を入れればそれで良い。
なんにしても、予定は余裕を持って入れるに限る。関係者の時間を大切に出来ない企業は、誰からも信用されないのだから。
2005年1月18日
昨日に続いてセンターの話題だが、1997年よりセンター試験でBasic言語が数学で出題されるようになった。つまり、私が入学してから3年後ろに続く大学生達は、基本的にプログラムの基礎をマスターしているのである。問題を解いてみるとわかるが、数学のどの分野よりも易しい。私が中学生頃でも充分に解けるレベルである。しかし、高等教育にプログラム知識を入れるのは賛成だ。できれば、プログラムにとらわれずにコンピュータ関連はある程度教えてあげればよい。現在社会に必須の学習内容は何かを教えてあげる事が出来るなら、PC知識や法税政財育関連の知識くらいは高校生に持たせてあげたい。
ちなみに、数学の点数はやはり秘密である。
2005年1月17日
センター試験が終わったので、挑戦してみる。点数はさすがに現役よりもかなり衰えているので公表できないが、国語や英語といった語学については当時より今のほうが優れている。古文、漢文については昔からあまり勉強したという意識も無く普通に読む事が出来たし、今も当時と変わらず読む事が出来る。現代文は、もちろん意味は取れるのだが、試験には試験のマッチングルールが適応されているので、ルールとのシンクロ率によって成績は変わる。7割~9割位の誤差がいつもあって、これは現役時代から今まで変わらないようだ。受験の頃は、内容を吟味する余裕が無かったが、今のように俯瞰した状態で内容を見るととても面白い。
今回の漢文では、管鮑の交わりが出題された。斉の名宰相管仲が死に逝くときに、名君桓公から親友である鮑叔の人為を聞かれて親友の性格を述べる名シーンである。
史記の管晏列伝のくだりでは、司馬遷がとかく晏氏贔屓な面もあるのだが(晏氏なら晏嬰より晏弱のが私は好きである。)、管仲はとても冷たい人物に描かれている。その後の思想家から叩かれまくったのは、「倉廩実つれば礼節を知り、衣食足れば即ち栄辱を知る」に代表されるように、彼が徹底的な合理主義政治家で、二君に仕えたり清貧を否定したりすればこそだろう。確かに、中国の思想家・政治家にあるまじき人物である。一方鮑叔は清廉な人物で、管仲を推挙した後に彼は管仲の部下として働く。
そして、出題の名シーンである。「管仲が死んだ後、鮑叔を宰相にしたいのだがどうか?」と聞く桓公に管仲は応える。「鮑叔は不正を嫌うあまり、融通がききません。だから政治をする事は出来ません。」
自分を推挙した親友なのに・・である。
このあとこの作者は、親友の苦手な政治の舞台で親友の功績が傷つくことの無いように配慮した。としているが、単に友情と政治は別に考えていただけだろう。そしてそんな彼を誰よりも理解したのが鮑叔である。よく鮑叔はマナーの悪い(と中国では思われている)管仲の経済の才能を見抜いたり、友人としてつきあえたりしたものである。きっととてもイイヒトであったのだろう。
鮑叔の恩にも報いずやりたい放題の管仲も友人を評してこう云っている。
「私を生んでくれたのは父母であるが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
本当の「管鮑の交わり」には、日本でよく使われるべたべたした友情物語とは一味違った面白さがある。
2005年1月16日
最近精神論についての記事を読んだので、自分なりに「精神論」について考えてみた。
「精神論」は「宗教観」に似ている。ある人にとってはアイデンティティの柱となっている事もあり、またある人には全く縁が無いものでもある。「気合だ!根性だ!」といって発奮するのであれば、その人によって有用な事は間違いないので、「どんな人にもその有用性は否定できないもの」なのだろう。宗教観も同様で、その人にとって大切な信仰であればその人にとって精神的に大いにプラスになるので、その有効性を他人が否定する事は出来ない。そして同時に、他人に押し付ける事のできないものでもある。
さて、ここまで述べてきた「精神論」とは、「気合だ!根性だ!」をベースにしたいわば自己啓発系の論理的要素の低い論議であったが、一歩進めて、モチベーションやコンセントレーションをコントロールする手法として捉えた場合はどうだろう。高い目標意識を持ち、自主的に考え、深い集中力を持って実行する事の出来る人間が、マシンのように一定の仕事を諾々と何も考えずに処理する人間よりも効率的であることは、誰にだって証明できるだろう。となれば、その手法を一般化する事ができれば、人にノウハウを伝達させる事もできる事になる。コミットメントをめぐる論議などは正にここに意義がある。そしてマネジメントの存在する意義もここにあるのである。つまり精神論はマネジメントできるとする発想である。
しかし、精神論の中でマネジメントに含むと危険な要素もある。一つは人間関係だ。リーダーシップの話でも触れたが、人間の魅力を管理する事は困難である。神業に近い。喜びや怒りという感情はコントロールしやすいが、好き、嫌いという感情はコントロールしがたいのだ。人の好悪まで管理できるというのは、奢りであろう。
それでもしかし、である。仕事をする上でモチベーションを高く持っている事、大事な事には集中する事等はビジネスマンの最低条件だ。当社を振り返って考えると、自分には今更管理する必要も気合入れて発奮する必要も無い。要は人なのだ。だからこそ、「気合だ!根性だ!」論では許されないのだ。だからマネジメントを語り、メンタルケアも含めた環境を作る。そして、好悪については当社が、あるいは私自身が、仕事をしてくれている人を好きになる事。これで相手から嫌われるようでは仕方が無いということだ。
人の心を動かすためには、きちんとした理論と信用を得るだけの人的魅力が必要なのだ。
「精神論」は少なくとも理論側を、可能であれば魅力まで説明しうる熟成された本物が必要なのだ。