2005年2月9日
私が証券会社の新入社員だった頃、古くカビの生えたような体質の会社と主体性も無くバブルと証券会社におどろされ自己責任という証券取引の最低原則すら理解できない稚拙な顧客に心から失望しているとき、「オンライントレード」の部署に引き上げていただいた恩師がいる。
当時のメディアマーケティング部の部長であるN部長である。
新入社員は一年間営業、という当時のルールからはずれ、部長は私をもっとも新しい仕事を行う集団に引き入れた。
「面白い事をさせてやる!」
初めて転属の電話を直接部長から戴いたときに私を誘った言葉である。私の本当のコスモ証券時代はここから始まる。ループトレード対応、携帯トレード対応、自動音声対応、信用取引対応、そしてホームページリニューアル。私が全力で取り組んだ全ての企画は、いまでもはっきりと思い出せる。当時の仕様に関しては、現在でも私が最も詳しいとの自負もある。それほど熱中して、力を尽くすに値するすばらしい仕事であった。
全てはそのきっかけを与えていただいたN部長のおかげである。
メディアマーケティング部という部署は、部長を筆頭にコスモ証券では異端とされる偉才が集まっており、この部署に参加できた事を今でも非常に誇らしく思っている。しかし、あまりに会社の体質と各スタッフの意欲・能力に開きがあったため、一人、また一人とコスモ証券を離れていった。今にして思えば、コスモ証券という器では吸収しきれない個性の集まりだったのだろう。
私の先輩も辞め、私も去り、そして部長が一番信頼を寄せていた部下も離れて旧メディアマーケティング部のメンバーはコスモ証券の中で部長一人になった。
本日、その頃のスタッフの一人から連絡が入る。「部長がコスモ辞めるって・・」
・・ついにこの日が来たのか。なんとも云いがたいのだが、それもまたメディアマーケティング部の長として相応しい選択であるようにも感じられる。部長もまた、あの会社には収まりきれないほど優秀であった事は我々が一番良く知っている。
しかしそれでも、その知らせを聞いたとき私の心は泣いた。
2001年7月3日の日記を読み返す。すべてが灰色に見えた頃に、あれだけのすばらしい舞台を与えていただいたN部長に改めて、心から、感謝の気持ちを伝えたい。
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7/3
退屈で退屈で、泣き出しそうな夜。くるくる変わる善悪の感情と故意に忘れようとした知性。
来る日も来る日も炎天下の中、希望も好奇心も失った敗者と無関心に語りかけた。
いったい何をしているのだろう。壊れたモラルと非効率な経営の論理。
つまらない。つまらない。ツマラナイ・・・。
親しい友人に見せる別の顔。ボランティアで魅せる別の顔。仕事場でみせる別の顔。
人は俺を非常識と云い、俺は彼らをかわいそうだと思う。
大スキ。大切にしてくれてありがとう。でも最後まで共感出来なかったね。
最後まで俺のことはわからなかったね。最後まで仮面をかぶったままだね。
表面だけ見て満足?俺はいい子だった?子供っぽかった?学生っぽかった?
純粋だった?すれていた?理屈っぽかった?馬鹿だった?
俺はずっと泣いていた。さびしくって、にげたくって、しめった空をただ眺めていた。
誘ってくれてありがとう。今ならどんな変化でも大歓迎だった。うれしくってドキドキした。
「面白いことさせてやる!」
ドラマみたいだねって友人は云った。どこまで出来るかみせて欲しいとも。
新しい環境に飛び込む前のこの不安で楽しみな感情、俺の一番好きな時間。
さぁこい!次の一瞬よ!俺の一番輝ける時であれ!!
2005年2月8日
決断するときは、ベストを目指してはいけない。
目の前に浮かぶ不安定で不完全な状況の中でベターと思われる事を目指すのだ。
結果間違える事もある。だが、保留するよりも何倍もいい。
まず、決断する。
そして、その方針で行動する。
間違っていたら、そこで決断しなおす。場合によっては拙速に過ぎてそこまでの行動が無に帰すかもしれない。だが、それでいい。無駄なコストがかかるかもしれない。だが、それでいい。
トップであれば、まず決断すべきだ。そしてその決断した事項を実現するために全力を尽くすのだ。
失敗してもいい。赤字であっても仕方ない。
ベターな選択肢が取れていれば、失敗よりも多くの成功を手に入れることが出来るだろう。
2005年2月7日
大学時代の友人から見れば非常に今更なことになるだろうが、私は相当な自信家である。
人のやっている事の殆どは自分にも出来ると思っているし、無人島に流されても生き抜いていけると思っているし、抑圧された戦時下であれば迷うことなく銃を取って革命家となるだろう。遊びも知識も広く浅く。「できるか」と問われれば、まず「できる」と答える。
さて、ここまで云ってしまえば、どんな分野にも造詣の深いマルチスペシャリストのイメージを抱かれるかもしれない。だがそれは違う。その道のスペシャリストから見れば私の技や知識などおしなべて、所詮は初級卒業レベル。だが世間が求めるレベルはこれでいいのだ。
起業の採用条件を見ても、クライアントから作業手配を頼まれても、求められる技術欄には誰もこなしえないようなハイスキル項目が並ぶ。涼しい顔で私は応える。「えぇ。可能です。」あとはいくぜいくぜで一直線。実際はやってやれない仕事などない。
ここまでは、私を構成する基本であり、本質は変わらないでいる。起業して何が変わったのか。責任者としての思慮であったり、戦略であったり、あるいは腰の低い対応であったり、礼儀正しさであったりするかもしれない。最近再三話題に出す「柔らかさ」「優しさ」といったもの。そういったものに圭角を包んでいけたらと思っている。表面は物腰低く柔らかく、芯は強気で自信家で。
「瓦の上にまかれても、芽を出し花を咲かせる自信がある。」
2005年2月6日
最近は仕事が忙しくなってきており、現場をおろそかには出来ないのだが、その中でも採用活動引き続き強力に行っていきたいと思っている。
採用活動に際し、私の尊敬するソニーの盛田氏の名言を記そう。
「騙してでも優秀な学生をソニーに欲しい。僕は彼らを必ず幸せにする。」
起業の発展はただ一事、人の運用に尽きる。
騙してでも欲しい。
必ず幸せにする。
本当にこれは求愛の言葉だ。ソニーがトランジスタを開発しているとき、大学ではなくなりゆく真空管の研究をしていた。その時の盛田氏の言葉である。
色々な思いがあっただろう。全ては彼の言葉から推察できる。彼の元に人が集まったのも納得できる。人に関する活動というのは、まず情がありそして義があるべきだ、と感じた。
2005年2月5日
大学在学中よりマジックをこよなく愛し、そして後輩を含め多くの人にマジックの楽しさを伝えてきた。その中には、短期間の教え子も数多く含まれる。ある人はただネタを知りたいが為、又ある人はイベントの出し物として、そして又ある人は、家庭教師中の休憩中に。
私自身のマジックのルーツは、無論立命館であるが、当時立命館マジックはまだまだ黎明の時代だった。そのため私は京滋のプロマジシャンや他大学とも交流を深め、雑多な知識の源泉とした。
私のマジックのルーツは、これらの大学時代ともう一つ、留学時代にもさかのぼる。
ロサンゼルス留学時代は、マジックキャッスルのメンバーとしてかの居城を根城にマジック活動を行った。マジックキャッスルの説明は下記サイトに譲るとしよう。
http://www.wizards-inn.com/castle/
その意味では私は前田知洋と同門ともいえる。あのマジックサロンでマジックづけの日々を送った後は、各地を回りストリートマジックを行っていた。西海岸のビーチというビーチを回りまくった。その間も多くの子供達にマジックを教えていた。
就職して一時的にマジックと距離をおいていた時期もあったが、最近ではまた少しずつ地域の依頼にこたえたり、昔のマジックを思い出したりしている。
最近では、クレースの社長が知人の結婚式に披露する為に簡単でハデなマジックを教えて欲しいとやってきた。どうやら成功したようで、直近の弟子の活躍にホッとしていたりもする。
http://dblog.dreamgate.gr.jp/user/e063/e063/
何にしても我が弟子達よ。いつまでもマジックを好きでいて欲しい。望む事はただそれのみだ。