思い出してみる。
大学時代就職するときに「自己分析」なるものを試みた。
その際、記憶に残る昔から何をやってきたのか。そこから何を得てきたのか。
振り返ることによって、改めて「自分」というものを知覚する。
新しい一歩を踏み出そうとするとき、困難な壁にぶつかったとき、きっとそれは力になる。
記憶に残せる年齢になる前の記憶とは、余程強烈でしかも成長の過程で何度も振り返って思い出しているものとなる。
私の最古の記憶は初めて歩いたときのものだ。
小さい時に遊んだ積み木が今も残っていて、それを見るたびに思い出しているので記憶に残っているのだろう。
ちょうどその積み木は取っ手がついていて、所謂「つかまり歩き」に適している。それから手を離してよたよたと数歩。
それからはだいぶ時間が空いて、保育園に上がるまでは2・3シーンしか残っていない。どれも怪我がらみである。
滑り台から落ちて鼻をずりむいたり、アタマをぶつけて何針か縫ったり。今にして考えると、私も不注意だが母も不注意だと思う。
保育園に上がってからは、かなり記憶が定着している。時間割もわかるし、その頃歌った歌や、発表会の演技も覚えている。
私の通っていた保育園は家から遠く、必ず一箇所は大きな道路を越えなければならない。
あの頃私は、一人で家に歩いて帰るのが大きな野望の一つで、それを実行したことがある。
帰り道の事などは何も覚えていないので、きっとすんなりと帰れたのだろうが、それではこのイベントは記憶に残らないだろう。
記憶に残っているのは、終わった後のワンシーン。母親の鬼のような怒顔、これが保育園時代の野望達成の記憶として染み付いている。

2005年4月4日

《味覚》

日向家の味付けは薄味である。
幼い頃からある事情で、薄い味付けにならざるを得なかったおかけで、私の舌は明敏になったようだ。
また、子供の頃からすっぱいものと、苦いものも食べる習慣があった。
この経験がないと味覚は育たないらしく、甘いもの・辛いものだけでは不十分なのだ。
加えて、所謂「げてもの」も問題ない。おかげで留学中にも色々な国の料理を楽しむことが出来た。
ふと自分を振り返ると「まずいもの」の定義が良くわかっていない。
回りを見渡すと、人がまずいというものには幾通りかあって、ひとつは「食べなれていないもの」だ。
舌が発達した後、新しい味を自分のものとするのは人には難しい事らしい。私には未知の味をまずいと感じることが無いのでこれには当てはまらない。
次に、「過去にいやな経験をした食べ物」。よく小さいときに腐ったものを食べたりするとそれ以来その食べ物が苦手になる。ということがあるが、私にはこうした過去は無い。
次に、古くなったもの。なるほど、腐敗して可食物では無くなったものは、健康上の理由であまり口にしたくないが、加工の手段として発酵させたものであれば大丈夫である。
それに「新鮮だからおいしい」は、ものによる。同様に「天然だからおいしい」もものによる。
あとは、味ではないが食感がよくないものだろうか。ぶにぶにしていたり、かちこちだったり、ゴムみたいだったりするときにまずいと表現されることはよくあるが、それはそういうものとしてしかたが無いと思う。
ただ、飲み込めないものは苦手かもしれない。噛み切れない上にバカでかいもの。そう、たとえば巨大なこてっちゃんなんかは得意とはいえない。
同様に、「うまいもの」の定義も実は良くわかっていないが、これは悩む必要が無い。
食べながら幸せであれば、それはうまいものである。
らーめんやの親父の執念や、身内の愛情がこもっていれば、単純な食材や味付けでも至高の料理となろう。
ただ記憶に残るほどシンプルに旨い味付けというものも、今までに経験したことがある。
そして、それは私の舌の経験値として次の「旨いもの」を探す力となってくれることだろう。

インターネット広告といえば、少し前までウェブ上のポップアップかランダムに送られてくる迷惑メールかで、どちらにしても迷惑な代物であった。
各種アフェリエートが出来て手段は多様化したとはいえ現在でもユーザのためにならない広告手段というものは増え続けている。
「役に立つインターネット広告」とは、今のところ検索エンジンについているスポンサー枠くらいなものではないだろうか。
そもそも、無料・破格を売り物にしたインターネット上では、有料の仕掛けというものは難しい。
インターネットがでたての頃では、ユーザの母集団が少なくてオンラインショップなどはまったく収益に結びつかなかったし、今から出遅れて参入してもよほどのウリが無ければ成功は難しいといえる。
後からの参入が難しい主因は、広告がうまく機能していないからだろう。
スポンサーは思うような効果を挙げられず、消費者は迷惑に感じている。
一方、テレビのコマーシャルは本当に良く出来ている。コンテンツのつなぎ目に息抜きとして機能しているし、広告自体が面白い。
成熟した広告の優しさを感じさせる。ウェブ広告も形はどうであれ、少なくとも消費者に優しい存在にならなければならないだろう。

2005年4月2日

《スパイウェア》

コンピュータウィルスの存在は、広くお年寄りにまで浸透したのだが、スパイウェアとなるとまだまだ20代、30代といったコアな一般ユーザでさえ知らないケースが多い。
スパイウェア、アドウェアなどと呼ばれるこれらのソフトウェアは、ユーザの隙を突いてパソコンにインストールされ、その会社の広告をポップアップで表示させたり、ID、パス、メールアカウント等の個人情報を会社に送り返したりする。
厄介なのは、特定のウェブサイトを閲覧しただけでインストールされてしまうということだろう。
そして、アンチウイルス用のソフトだけではもれて進入してきてしまうということも挙げられる。
最近では、スパイウェアはウィルスを上回る脅威となってきている。
なぜなら、スパイウェアには利益の実現という目的とベンチャーキャピタルという後ろ盾があり、ウィルスよりも作成が容易かつ高度化が可能だからだ。
すでに、アンチスパイウェアソフトでも対応としては十分ではなく、ゲートウェイ型でのチェックが不可欠という。
個人でココまでの対応はマニアしか出来ないし、企業としても対策コストが急上昇してしまうだろう。
携帯にさえウィルスが登場してきた昨今、個人情報の防御はますます身近な問題となるだろう。

2005年4月1日

《成りあがり》

世間では、特にお金持ちの世界では「成りあがり」でセレブになった人は最初からセレブに生まれた人よりも一段下に見られる。
上流社会のソサエティなどはまさにその典型で、生まれや交友関係などを重視しているのだが、私はこうした考え方を心底軽蔑している。
お金を自ら稼ぎ出した人間と、最初から持っていた人間の価値を比較してどちらが上かと聞かれれば稼ぎ出した人間に決まっている。
そもそも会社、法人というものを息子が二代目で引き継ぐという考え方が法人の存在意義から考えれば不自然であるし、親が築きあげた地盤で恥ずかしげも無く生きているのは自立・自尊の精神に欠けていて一人前ととてもいえない。
一方成り上がった人は、本当にドロにまみれて築き上げた自分の居場所であり、勝ち取った報酬であり、心底惚れる人の生き様がそこにはある。
大切なのは、上流にはびこるそこでしか通用しない常識やマナーなのではなく、刻み込まれた男のしわであったり、ささくれた指であったり、そうしたものの上に立つ成功であろう。
私にとってはいつであろうと「成り上がり」こそ、尊敬すべき金持ちである。