2005年5月31日
4月からずっと、距離のある案件を請け続けてきた。
一つには、「機動力」というものが日向の、またトライアンフという会社自体の大きな存在価値であるということがある。もう一つには「全国展開」という野望の足がかりとするため。
中でも、大阪と東京には何度と無く出かけた。出来る限り自分の足で回ることを心がけた。
多くの人からアイデアや夢を分けてもらい、そのいくつかを実現するために走り回る。
5月の目的の一つは東京と大阪の拠点を作ることにある。
夢を現実の形にするために、足を掛けるべく方法を考える。
大阪は、今の仕事の延長上で捕らえるのが自然だ。取引業者のいくつかで関西を拠点にするものがあるし、前々から顔つなぎをしてきている。今回も可能な限り顔を出すようにした。
だからこそ、まず手がけるのは「関西」である。だからこそ、今回の当社の関西拠点は即決に近い状態で決めた。
一方「関東」はどうであろうか。
今回の遠征で、自分の証券時代の仲間達が未だに私に期待を寄せていてくれている事を知った。確かに「金融」は「情報」と同じように自分にとってはこだわりのあるものだ。前職の仲間と取引できる状況になれば、取引規模や利益はとても大きなものになるだろう。
多くの友人とあった。が、中でも師匠にあったのは自分にとって大きかった。師については以前このサイトでも取り上げたことがあったが、今もなおその熱い思いを失っていない。そして今もなお、私に大きな期待を寄せてくれている。
宿題をもらった。「証券仲介業」である。確かにうちの規模の会社で証券業に打って出る策はこれしかないと思う。もちろんアイデアを実現のところまで落とし込むには多くの難題があるわけだが、「攻め」に切り替える3期ならば行けるかもしれない。
いずれにしても、大きく動くつもりである。いよいよ2期も決算だ。次につながる何かを残して、そして次の期を望まねば。
2005年5月2日
本来のスタンスに戻ることにする。
つまり、このプレジデントルームであれば
「書ける時に書く。何ヶ月休もうとも、また時間が取れたら、気分が乗ったら書けばそれでいい。」
ということだ。
もともと私自身が短期集中のムラッけの塊であるのだから、そもそも「毎日○○をしよう!」という心構え自体が自分らしくなかった。
趣味にしろ、学習にしろ、今まで長く続いているものは、やりたいとき、必要なときに、好きなだけやる。というものに尽きる。「毎日少しずつやらねば」と勢い込んだものは、溜まった時に振り返って嫌になり、二度と行わなくなる。そのくらいならば、やれるときにやれるだけ、と思っていれば再開するのも気が楽である。
「このネタは明日にとっておこう」というのも、実に自分らしくない。やりたい物というのは旬の時期があり、それを逃すと魅力を失うものだ。余力を残して次の日にゆだねる、というのは自分の輝きを失うものだろう。
また、大学時代の友はこうも語っていた。
「明日やろうとする愚か者め、賢者は昨日している。」
今日できる事を力いっぱいやる。それで良いのだ。
2005年4月7日
春木中学は、私の母校「春木台小学校」とお隣の「音貝小学校」がくっつく。
中学に上がり、音貝からきたH氏と知り合う。私の中学時代はなんと云っても彼の影響が大きいだろう。
彼が私に持ち込んだ文化はズバリ「クイズ」と「パソコン」である。
そもそも、私が立命館を志したのがウルトラクイズで大活躍した長戸や能勢がRUQS(立命館大学クイズソサエティ)出身であったからである。
この頃は、クイズブームで各局クイズ番組が大爆発していた。雑学を集める習性はこの頃身についていったのだろう。
パソコンについては、ゲーム歴共に振り返ろう。
初めて買ったゲーム機は、セガの何かだったと思う。小学・・2年生あたりの時である。
程なくして任天堂からファミコンが登場することになるのだが、セガが壊れて動かなくなった後、なぜかMSXを買った。
つまり、これがパソコン歴の始まりである。恐らく確か、ゲーム機として買ったのだ。
今となってはあまり思い出せないのだが、カートリッジのカセットのほかに、普通のテープレコーダでロードするタイプのゲームもやっていたと思う。
「ピーピーガーッ!」と音がして、ロードに30分くらいかかるやつ。
自分でもベーマガを見て入力をしていたりしたが、プログラム知識は表面だけであった。
中学に入り、H氏がドラクエの戦闘シーンもどきを作っているのを見て、触発されウィザードリィもどきのゲームや三国志もどきのゲームを創る。
これが本格的にプログラムを組んだ最初になった。
生徒会もやった。それなりに忙しかったのだが、大きなイベントとしては二つ覚えている。
一つは雲仙普賢岳の噴火に対して募金を集めて送ったこと。何気に提案して始まったのだが、取材がきたり表彰されたりでえらい騒ぎに発展していた。
もう一つは、頭髪規制の撤廃。丸坊主だったのをやめた。これは時代の流れに乗ったのだが、実現まではそれはもう大変だった。
思えば、この中学までの期間で、自分というものの素地は殆ど出来上がっている。
一気に書いたが、中学時代と大学時代は書こうと思えばいくらでも書ける。重要なターニングポイントになっている。
2005年4月6日
小学生になる頃の記憶からは、かなり鮮明なものになっている。
恐らく、時間や日付の概念を正確に理解できたのがこの頃だからだろう。保育園の頃はイベントの順序が良くわからない。
また、母親が世界の中心であった保育園時代から、先生や友人のウエイトが増す小学校時代に入り、他人からの影響が性格に反映されていくことになる。
特に、3・5・6年生の頃教わったT先生の影響は絶大である。
青山学院の心理出身の教諭であり、国語のエキスパート。ユニークな授業方法などはご近所でも話題になって、特に彼の教え子の記憶能力はすさまじいものであった。
じゅげむに始まり、都道府県、四文字熟語、ことわざ、その他もろもろ、私自身も異常な量を暗記している。
国語の教科書でも、ぶす(附子)等は丸暗記したし、映画のグーニーズを丸暗記したりと暗記量は際限が無かった。
また、年に一度の「学習発表会」という演劇の発表会でもかなり力が入っていて、その頃から「ステージを創る」魅力に引っ張られていた。
演目は、浦島太郎と卑弥呼。両方とも主役をやったのでストーリーもせりふも殆どまだ入っている。
卑弥呼は熱演でした。「おぉー!見えるのじゃ、見えるのじゃ。2千年後のわが国が。何たることじゃ。美しき自然は壊され、人々は贅沢な暮らし。なんと、子供が子供をいじめておるではないか。誰のせいじゃ、誰のせいじゃーっ!(ばたり。)」
課外では、サッカーやったり野球をやったり、カブスカウトをやったり、アクティブな活動をしていた。
そうそう。この頃は絶対音感があって、和音を聞き分けられたり、楽譜を見るだけで歌えたりと今考えればうらやましい能力があった。
いつごろ無くなってしまったかは不明。