2005年12月6日
私の本質は起業家・経営者というよりもむしろ投資家である。
よくメディアで取り上げられる著名経営者の経歴で、地獄の底を這わなければならない状況やリスクを見越しながら一点に集中し、見事に賭けに勝ったイノベーターが華やかに取り上げられる事がある。
あの形に憧れて起業する人もいるだろうし、ハイリスク・ハイリターンの中に身を躍らせるのもすばらしい生き方だと思う。
しかし、あのような一点集中勝負型の経営には、周りの人が普通に感じるリスクが当然の様にあって、それは所謂博打の姿である。自分のこととしてリアルに事業を考えたとき、博徒ではなく投資家でありたいと私は思った。
一つの商品やサービスのみに特化したり、一つのクライアントに発注元が一点集中したりする形は如何にもハイリスクである。通常の運用者であれば「一度躓けば全てが終わる」状況には耐えられないものだ。上記のどちらか、可能であれば両方を分散化するよう試みるだろう。
さてここで、「分散投資」について触れたいが、よく分散投資について「分散する数が多ければ多いほど、リスクも確率としては低くなり、資産全体の運用の効率は良くなります。」などとしたり顔で説明する自称プロがいるが、これは真実とは云えない。
実際は分散数が増えるほど分散によるリスク回避メリットは逓減するので、5・6箇所に分散しておけば十分であり、それ以上分散しても手間やコストばかり増えてリスク回避メリットは微々たるものしか享受しきれない。
投資から企業活動に視点を移して考えてみても、商品サービスを2・3種、それを購入していただけるお客様先を2・3箇所持っていればリスク分散としては十分なのである。それ以上手を広げても分散によるメリットが手間やコストのデメリットを超えるのは至難といえる。それよりも現状のサービスの質を上げること、既存のお客様を大切にすることの方が遥かに効率もいいしリスクリターンに換算して割りに合う。
「中小企業は得意分野に特化しろ!」「新製品をどんどん開発して、新規顧客をかき集めろ!」どちらも輝かしいし尤もに聞こえる。しかし、斬新さのあまり無い効率的な運用・運営を当社は選ぶ。
2005年12月5日
プレジデントルームに出てくる単語の中で、一般的に耳慣れない言葉もきっと多いと思う。
私が記事にする時は、別に「インテリだからこんな言葉も知っているのだよ。」と云うことを示したいのではなく、むしろその日に出会った言葉や概念について調べてみて、自分なりに定義づけられた事や感じた事を書くようにしている。
一義的な言葉の意味などは検索すればすぐに分かるのだから、単語を知っているだけというのは殆ど無価値なのだろう。
一方で、言葉の意味などは検索すればすぐに分かるのだから「単語」など知識として入れておく必要は無いか?と聞かれれば、そんな事はない。一つの単語が発生するためには、前提条件や環境などに加えて言葉が創られた経緯や意味が必ず存在する。一つの言葉を識ると云うことは、そうした概念や経緯、もっと大きく捉えれば文化を識ると云う事である。
つまり私が紹介している単語などは、単語そのものを伝えたいというよりも私の思考を記しているといえる。紹介した言葉は私の想いとともに伝わり、その人の中でその人なりに消化される。きっとその人の言葉としていつか出番を迎える日があるかもしれない。
2005年12月3日
仕事をする上で最も必要な能力というのは、仕事場の空気や役割が読めて必要に応じて作業の推進に役立つ事である。
一作業員からマネジメント層に至るまでその前提は変わらないが、いったいどうすればこのような能力が身に付くのだろう。
こうしたものは、データ化・マニュアル化・理論化しづらい。なぜならば人間同士が関わるものである限りタテヨコで切り分けてモデル化していく程に現実と離れていってしまう事だからだ。
しかし、あきらめてしまっては「必要な能力」を身に着ける事ができなくなる。きっとモデル化のような作業とは別のベクトルにこそ答えはあるのだろう。
私はその答えの一つが「複眼」を持つ事であると思っている。人から見た自分、世代間の見識の違い、立場による判断の差異、報道の間に透ける真実。
つまりは多角な視野を持つ事だ。そのためには幅広い「教養」が必要となる。
一分野を極める事に意義が無いとはもちろん云わない。更に云えば、最も端的にその人の能力を測るときにウリになるのは他の追随を赦さない程の差別化、つまりは「専門性」を見てしまうものである。その評価は間違っていないだろうし、「努力」がストレートに報われる形でもある。
しかし、一人の社会人として一歩を踏み出した時、「単眼」しか持たぬ者のバックボーンの薄さは隠しようが無い。一本自分の道から外れた事は分からなくなり、人の立場からモノを見ることもできないだろうし、価値が多様である事を理解するのも困難となる。
このような人物は場の空気などは読めまい。
私が考えるリベラルアートとは、大学の教える「一般教養」という狭いカテゴリとは別枠であり、可能であれば社会に触れながら関わりのある全ての事象について学ぶ「教養」である。
一般的に就職を恐れる若者には、「自分のやりたいこと」が分かっていないというよりもむしろ、圧倒的にリベラルアートが不足していると感じる。同様にルーティーン化した仕事を黙々とこなし、このままでいいのか?と漠然と不安に思っている社会人もリベラルアートを学ぶべきだと私は考える。
マネジメントは机上で理論をこねるのが仕事ではない。感じる事のできないマネージャに管理されたい人などいないのだから。
2005年12月1日
世間の不祥事と共に問われるコンプライアンス。
我々経営者はこのように記録に残る形でコンプライアンスについて書く事は非常に恐ろしいと思っている。
建築設計問題では、とかく「住民の生命・財産の権利」という視点から報道もされているし、批判や意見もでている。
当然不祥事というものは被害者を守る視点が第一義とされるべきなのでそれでいいのだが、根幹は不祥事を起こした側がどのような状況にあるのか?という点であろう。
世間一般の捉え方とは大きく異なると思うが、企業経営者で「利益追求の為に法を犯しても良い」と考えている人間は殆どいない。不祥事に手を染めてしまう経営者の多くは、取引先に絡む不祥事を明らかにしてしまえば潰れる、あるいは潰れてしまえば社員や債権者に迷惑がかかる。と云うことで望まぬ不祥事に手を染めていくのだ。個人であれば、たとえ国家が定める法の方針であれ「生きる」事を優先する事は間違っていない。だが、法人であれば、「生きる」事よりも「法律を守る」事が優先されるという事である。
今回のマンション建築における偽造問題についても、発注者のH社や検査機関のI社、関連省庁等の行政機関は「順法」であったと思う。但し国民の「生きる」権利よりも彼らの最低限「順法」であることを優先させた結果がこの不祥事だろう。「A氏事務所」は法人名義でかどうかは微妙だと思うが、実質は個人事業主であり所謂「個人」だったのだろう。「順法」であれば取引を打ち切られ、生きる糧を失う、と云うほどの圧力を受ければ「生きる」事を優先するだろう。いわば、「順法よりも生存」を選択したのだ。
マスコミや国会議員が簡単に口にするほど、人や会社の「生存」を否定する事は容易くない。事件解明して、対策を講じるにはもっと当事者の事情を親身になって理解する必要があると思う。
2005年11月29日
この前の講演の感想を読んでいて学生時代を振り返る。
そうそう。あの頃は社会というものは、もっと合理的で効率的なものだと思っていた。もう少し云ってしまえば、もっとキチンとしていて自分などでは通用しないのではないかという不安があった。
しかしながら自分が就職してみてまず感じた事は、大学時代との人的レベル・インフラのギャップであり、不条理で泥臭い「社会の現実」の存在だった。自分は通用しないどころではなくて「普通」のレベルはこんなところにあるのだ、という率直な驚きだった。
営業現場ではいわゆる研修体制・管理体制などはまるで無く、個々人が何とかして日々の業務をまわしている現実。非常識な業界の常識。
とにかく社会人一年目は新鮮だった。
あの頃から今まで、私の中では一つの目標がある。それは「普通である事」だ。大学生から見て普通である事。一般社会から見て普通である事。ともすればそれは、素人が唱える「理想」の姿かもしれないし、サービスを受ける事に慣れすぎた若者が主張しすぎる「権利」の姿かもしれない。
証券時代のサービスもまさに「普通できて当然」を創り上げる戦いであったし、現在も「普通の会社」を目指して階段を上がっている最中である。多くの人が関連する組織で、資金や制度で制約を受けているとしたら、そして責任のある立場で組織を構築する立場にあれば「普通である事」は外から見た感じ以上に難しい。
コンプライアンスを声高に叫ぶ前に、まずは普通である事。これができないから、ミスやチェック漏れが集積して、社会を賑わす不祥事にまで発達した挙句、ユーザの心証を害する対応をして問題を増長させたりしてしまうのだろう。
業界の空気が読めない人間にビジネスはできないが、世間の空気が読めない会社には社会責任は果たせない。私の会社運営の軸足は私の持っている「普通」を追いかけるところにある。