2007年11月17日
小学生の頃、通知表に
「基本的な生活習慣」
という項目があった。
いつも評価は低かった。
今になっても当時からそれ程資質として変化があったわけではなく、
曰く、
・PCのデスクトップには色んなファイルが無造作にはりついている。
・パソコンのスタンバイにして電源は切らない。
・机の上の整理ができていない。
・メールやファイルはサブフォルダに分類して整理したりせず一つのフォルダで雑多においてある。
・自分のスケジュールは原則フリーにしてアポはできるだけ入れない。
・目標を紙に書いて読み上げたりもしない。
このあたりは今も昔もまったく変化がない。
そんな事をいうと、しっかり派からは「仕事ができない」と思われがちだ。巷では、貴方は○○時間探し物に時間を食われている・・なんて声高に叫んで整理整頓の重要性を説いて回る。
しかし、私の本音では、ぐちゃぐちゃに見えても大切なものがどこにあるかは大体わかっているし、データ化されているものなら大分前から分類から検索にシフトしたし、時間や場所やアナログや約束に縛られれば縛られるほど能率もサービスも落ちると思っている。
利便性とセキュリティや独自ルール等になれば、みんなも理解しやすいと思うけれど、セキュリティを強化したためにメールが使えない、インターネットが見れない、等異常に利便性を落とした企業は山のようにある。本来セキュリティやルールは最低限整備して後はモラルを向上させることで利便性を落とさないようにするべきだ。組織員のモラルをまったく信じていないため利便性をまったく無視した措置をとることになる。
枠を広げて、しっかり整理整頓と利便性も同じようなものだと思う。
自分が最低限きちんと処理できれば、オールクリーンである必要は無い。
きちんと整理するには労力がいる。労力はコストだ。また整頓されたものをきれいなまま使用し続けるのにはもっと労力が要る。ちょっと探せば良いところを全く探さずに使用するという目的のために、膨大な時間をかけて整理する。整理し続ける。このコストを意識しないのは明らかに変だ。
社内の共有財を誰でも使えるように取り決めをすることは大切だし、運用は便利であるべきだと思う。しかしそのために度を越したキッチリ化コストを負担するのは正しい姿といえないのではないか。
社会が潔癖になりすぎて、パソコンは使わないことが至上だ・モノはゼロが美しいと言い出したら、実は企業も人も生きていけない。
曖昧なことも寛容なことも仕事をする時には大切な要素なのだ。