2005年3月31日
ホウレンソウは、社会人としての基礎能力のひとつとして挙げられるのだが、当社、というよりもうちの業界ではちょっと異なる。
ひとつは階層が複雑で誰にどこまで何を報告・相談できるかを見極める必要があり、もうひとつは一定の範囲では自己完結能力を求められるということである。
仕事にトラブルは付き物で、解決のためにはなるべく中間に人を通さないで直接担当者に聞いて正確な情報を手に入れる必要がある。
一方、些細なことを直接のクライアントを飛ばして、元請に尋ねたためにクライアントに迷惑がかかるということも頻繁に起こりうる。
ヘルプデスクが設定されている場合であれば問題はないのだが、そうでない場合はどうするか。
基本は近いところから、つまりうちのスタッフであれば私から聞いていけば間違いないが、当社とじかに取引している会社までは信頼関係ができているので相談可である。
私に上がってくるのは事後でもかまわない。
基本はミスったときの対応だけだ。ミスはしてもかまわない。現場を知らないクライアントが目くじらを立てる場合もあるが当社の評判等を気にして抱え込む必要は全然無い。
トラブルのフォローをするために会社はあるのだし、中間に位置する会社もマージンを抜いているのだ。
大丈夫。責任は会社が持つ。失敗しても良いから思いっきり仕事してほしい。
2005年3月30日
私や当社にとって、スタッフが病気や怪我などのハンデキャップを背負っていることは消してマイナス材料とは考えていない。
ハンデキャップなどは、その人の一個性という以上の意味などは存在しないと思っている。
病気自慢をするつもりはさらさらないのだが、私自身去年から「バセドウ病」という奇病にかかっている。
病気の説明は次のサイトに譲るとして「http://www.hahoo.jp/~koujyousen/basedou/p1.htm」現在は薬で抑えているので通常の生活には支障が無い。
去年の今頃、発病当時は病院でもなんの病気か原因がわからず、立てなくなったり、激ヤセしたりしていたので、その頃の私を見ている人であれば思い当たる事もあると思う。
その頃から、まわりのスタッフには非常に助けられているのだが、「会社に迷惑をかけている」とは思わないようにしている。
病気や怪我、あるいは出産などで一時戦線を離れることがあったとしても、それをカバーできるのが会社組織というものであるだろうし、構成員が五体満足で100%何時でも会社のために尽くすような前提では、むしろ社会正義に反しているだろう。
私は小さい頃から「皆勤賞」を学校が薦めているのに反対だった。病気であれば治せば良いし、感染するものであれば、むしろ休ませるべきだ。
どうように会社がクライアントのためということで、構成員の体を壊すほど酷使するのは反対である。
経営者の責任感は、クライアントの要望を満たすためのみに発揮されるのではなく、会社を構成する全ての要素に配慮して発揮されるべきものであると考える。
2005年3月29日
人を育てたいと思う。
なぜだろう。今思うと、進学・就職・企業、どこの一瞬を切り取っても、「もし今の自分があの時の自分を指導することができたら」と考えるとやってあげたいことが山ほどある。
それは、後悔とは違う。今までの支援者が物足りないわけでもない。
それでも、教えてあげたいことが限りなくある。そして今後何かをするときも、未来の自分がいてくれればこの上なく頼りになることは疑い得ない。
人を育てたいと思う。
自分が悩んできたことや、解決してきたことは、汎用が効くように一般化する癖がついている。
いつかこの経験が役に立つように。いつかその知識を応用することが出来るように。
私が幸せに感じる瞬間を分類すると、「何かを伝えることが出来たとき」は必ず上位に入るだろう。
そして同様に、何かを受け取ったときも人生意気に感じるものだ。
それはきっと、自分も育てられたいときっと思っているからだろう。
2005年3月28日
2005年3月27日
普段なかなか振り返ることの無い自分に、率直に語りかける。
自分の行動指針に「正義」は無かった。
ただ、「変化」を渇望していた。
なぜか?
思えばそれは我侭で独りよがりの理想かもしれない。
その理想に現実を近づけるため。実現する力を手に入れるため。
自分が只流されるだけの存在でいないため。
変える力を欲していた。変わる何かを期待していた。
自分がいるこの世界で、過ぎていく時代に。
変わっていくことが何も無かったとしたら、何も自分で変えることが出来なかったとしたら。
きっと自分の生きていく価値は無いと思う。
きっと自分が存在する意味は掴めないと思う。
振り返るといつでもそこには、変わってくれ!と叫んでいる自分が見える。